私、きいこが一番好きな画家の一人、ゴッホ。しかし、どんな少年時代だったか、伝道師時代はどんな日々だったか、なぜ画家になれたのか、彼の周りにはどんな人たちがいたのか、、、など、知らないことの方がたくさんあります。この機会に彼についてもっと知ろうと思いまして、3回に渡りゴッホの人生について辿っていきたいと思います!
それでは、ゴッホの人生を辿る旅、出発!!
さて、ゴッホの人生についての映画や、本はたくさんあり、展覧会も定期的に開催されますが、どうしても画家になってからの日々に焦点があてられがちです。
しかしゴッホが画家として活動したのはたったの10年。27歳までは、生き方に迷い、様々な職業を転々とする若きゴッホがいました。
今回のpart1では、そんな、画家を志すようになる前までのゴッホの人生を深掘りしたいと思います。
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第1章. ゴッホ誕生——孤独な少年時代

1853年3月30日、フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ南部の小さな村、ズンデルトで産声をあげました。父は厳格な牧師、芸術と自然を愛する母、5人の兄弟たちと育ちましたが、幼い頃から、できが悪く孤独でした。一家は上流階級ぶるきらいがあり、地元の農家の子供たちとは遊ばないように言いつけられていました。夜は屋根裏部屋で、弟のテオと同じベッドで寝ていました。
11歳の頃、学校を退学し、寄宿学校へ送られます。まるで見捨てられたような気持ちで、日々を過ごすことに。そこにいた2年間についてゴッホは後に「教わったことは何もなかった…」と語っています。
中学校に進学すると1日5時間以上の授業がありました。しかし、今度も2年生の途中で退学し、また実家に出戻りです。友人も少なく、ひとり村を歩いては、自然とたわむれて、スケッチなどをして過ごすことも多かったようです。
16歳になった頃、同じ名前の叔父、”フィンセントおじさん”が運営に関わる、美術商グーピル商会に就職することになります。最年少の彼は、ここで初めて「社会の一員」としての居場所を見つけたかに思えました。
第2章.美術商としての希望と絶望——ロンドンでの失恋

ハーグのグーピル商会で働く中で、彼は美術と出会います。そして20歳のとき、パリ支店を訪問し、初めて本物の芸術に触れる喜びを知ったのです。
その後、ロンドン支店へ転勤。ここでの生活は、最初は順調そのものでした。下宿先のロイヤー一家と親しくなり、娘ユージェニーに恋をします。そして彼女との未来を夢見てプロポーズするのですが、彼女にはすでに婚約者がいたことを知り、心は打ち砕かれてしまいます。。。
ゴッホは、この失恋をきっかけに、激しく変わってしまうのです。無口になり、食事ものどを通らず痩せて、次第に仕事も手につかなくなっていく…
そんな状態が続き、ロンドン支店からお払い箱をくらうようなかたちで、パリへ移ることになります。しかし、ここでも彼の心は晴れることなく、救いを求めるように宗教への没頭が始まっていきます・・・
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第3章.宗教への傾倒と転職の連続——道を見失う若き日々

パリでの仕事中も、彼の心はひたすら神へと向かっていきます。時間さえあれば聖書を読み、祈りに没頭する日々。許可がおりてなかったにもかかわらず、クリスマス休暇を無断で取ったことが決定打となり、ついに解雇されてしまいます。
23歳、無職。実家に戻った彼は途方に暮れながら、手当たり次第に求人へ応募。そして就職がきまり、イギリスのラムズゲイトへ渡ります。寄宿学校で補助教員として働きますが、床も落ちそうな程のボロ校舎で、2ヶ月後には校舎の移転が決まります。劣悪な環境の中でますます心閉ざされたゴッホは、契約更新はせず、転職を決意します。
次に彼が選んだのは、富裕層向けの学校の個別指導員でした。しかし、授業そっちのけで聖書を語るばかり…聖書のことしか頭にない彼に、家族は「大丈夫なのか?」と不安を募らます。
クリスマス休暇で帰宅した際に、家族の反対により、教師を退職し実家に戻ることに。
またもや無職となってしまった彼が、フィンセントおじさんの計らいによりオランダのドルトレヒトで書店員 の職につきます。しかし、彼は牧師になるために神学の勉強をすることだけを考えていました。1877年、彼はついに「牧師になりたい」と宣言し、アムステルダムの親戚のうちを尋ね、神学の勉強をスタートさせます。試験に合格するには7年間の学習と高度な語学力が必要です。
彼は1年必死で努力したものの、家庭教師から「合格の見込みなし」と判断されてしまいます。夢はまたしても打ち砕かれてしまいました。

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第4章. 神に捧げる人生——炭鉱での伝道生活
1878年、彼は神学を断念しましたが、人々を助けたい思いから、ブリュッセルへ向かいます。アムステルダム神学コースの半分ほどとなる3年間で伝道師になれる訓練過程があったためです。しかしそのためには、はじめの3ヶ月の予備期間をパスしなければいけませんでした。ゴッホはまたしても3ヶ月で不合格を言い渡されてしまいました。
この状況下で、ゴッホは新たな計画として、炭鉱地帯のボリナージュに行くことを決意します。そこは極貧の労働者たちが住む場所で、事故が頻発し、彼らの命は常に危険にさらされていました。

ゴッホはヴァム村で、信徒伝道者として働きながら、病人の世話をし、子どもたちに勉強を教えました。労働者と同じように粗末な食事をし、穴だらけの服を着て、彼は貧者のためにすべてを捧げようとしました。
始めのうちは、伝道委員会も、彼の献身ぶりを讃えましたが、最終的には「説教の才能がない」という理由で、結局わずか半年で解雇されてしまいます。
無職のまま2年間をこの地で過ごしますが、収入はゼロ。テオや父親からの仕送りで生き延びるものの、数週間も何も食べられない日もありました。
ついには両親が「彼は精神を病んでいるのでは?」と精神科への入院を検討。これを知ったゴッホは怒り狂い、家族と決別の危機に・・・
そんな中、旅先で彼はついに決意するのです——「画家になる」と。
それは、弟のテオが長年勧め続けていたことでした。するとようやく、彼の会話の中から、聖書の内容が薄らいできたのです。
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第5章.運命の決断の時——芸術へと導かれる魂
1880年、彼はブリュッセルへ移り、いよいよ絵の勉強を始めます。しかし、収入ゼロの彼に残されたのはテオの支援だけでした。

とにかく早く稼げる画家にならなければいけないと、王立アカデミーの無料授業に参加するなどして、画力をあげるための練習に没頭しました。
こうして、ゴッホは27歳にして、画家を目指すという人生の入口にたどり着きました。波瀾万丈の人生はこの後もつづきますが、画家以前の彼がいたからこそ、後世に輝き続ける名作が誕生したのでしょう。
画家を志すまでのその道のりも決して平坦ではなく…彼の心にはいつも孤独と苦悩、挫折や絶望がつきまとっていました。
その後彼が遺したものは、850点の絵画、1300枚のデッサン、そして800通以上の手紙。この歴史的遺産により、世界中で彼を知らない者はいないまでに、人々を虜にし続けています。
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あとがき
ゴッホの人生は、決して幸福とは言えなかった。様々なタイミングで、夢に破れ、家族やまわりから心配され、社会から理解されなかった。だが、その苦悩こそが、結果として彼の芸術を生み出したのかもしれません。
でももし、今ゴッホに会えるならその心の傷を癒やし、少しでも安らぎをと思ってしまいます。あまりにも苦悩を背負いすぎて、愛に飢えていた彼は、今やこれほどまでに成功を納め、世界中から愛されてる。そんな事実を、心から知ってもらえたらと思う次第です…
次回Part2では、画家を目指し始めてから、南フランスのアルルにつくまでを辿ります!
参考文献:『ゴッホの地図帖 ヨーロッパを巡る旅』(講談社)著:ニーンケ・デーネカンプ、ルネ・ファン・ブレルク、タイオ・メーデンドルプ