今回は、画家になる決心をしたところから、名作が多く誕生し逸話の残る南仏アルルに着くまでを辿っていきたいと思います!
第1章:画家への第一歩――ボリナージュからブリュッセルへ

画家になろうと決意したのは、1880年、28歳のときでした。もともと弟テオから「絵を描いてみたら」と勧められていたヴィンセントですが、当時はまだ芸術の世界とは無縁の生活を送っておりました。画家を志したスタート地点の炭鉱町ボリナージュでは、伝道師として活動していましたが、そこには芸術という概念すら存在しておらず、人々にとって「絵画」とは何なのかさえ理解されていませんでした。
そこで、ヴィンセントは芸術こそ自分が生きる道だと信じ、絵画の修行のためブリュッセルへ向かいます。売れる絵を描くための技術を学ぶ日々。しかし、物価の高い都市で、モデル代や画材、解剖学の本に自分の生活費までがかさみ、経済的にはかなり厳しい状況でした。
そんな彼を支え続けたのが、弟テオです。どんな状況でも、テオは金銭的援助をやめませんでした。テオからは「パリに来て一緒に暮らさないか」とも誘われましたが、ヴィンセントは時期尚早とそれを断り、両親のいるエッテンで暮らそうと考えました。
第2章:燃える恋と破れた夢――エッテンの苦悩

1881年、オランダのエッテンに移り、初めて自分のアトリエを持つことになります。昼夜を問わず、何時間も絵を描き続ける情熱的な日々が始まりました。
その夏、従姉のケー・フォスが牧師館に滞在したことから、ヴィンセントの心は大きく揺れ動きます。彼はケーに恋をし、情熱的に求婚しますが、ケーはきっぱりと断ります。
それでも諦めきれないヴィンセントは手紙を何度も送りつけ、ついには彼女の父親(フィンセントの叔父)へ大量の手紙を送り、さらには家まで押しかけてしまいます。しかし会うことすら許されず、絶望の中で精神的に追い詰められた彼は、ガスランプの炎に自らの手を突っ込むという奇行にまで及びました。
芸術と恋愛、どちらも思い通りにいかない中で、ヴィンセントの心は深く傷ついていきます。
第3章:孤独な修業時代――ハーグ、ドレンテ、そしてニュネンへ
1881年末からは、画家としての修行を本格的に始めます。ハーグでは、いとこで画家のアントン・マウフェのもとで学びましたが、数週間で資金が底をつき、実家に戻ることに。
しかしクリスマスには両親と大喧嘩になり、家を追い出されてしまいます。テオもそのことについて一度は激怒しましたが、それでも兄を見捨てず、送金を続けてくれました。
その後、スヘンク通りの一軒家に住み、人体デッサンや水彩に励みますが、モデル代が払えず、売春婦のシーンという女性と暮らしながら描くようになります。彼女は子持ちで病弱でしたが、ヴィンセントは「守ってやらなければ」と強く感じていました。結婚はしていないもののヴィンセントが人生で唯一家族と暮らした時間でした。

しかしその愛も報われず、自身も性感染症で入院。やがて、度重なる口論の後、彼女との未来はないと感じ、シーンとの別れを決意します。
1883年、オランダ北部のドレンテへ向かい、自然と向き合う生活を始めます。貧しくも力強い農民たちの姿に惹かれましたが、孤独感は募るばかり。寒さと孤独、体調不良に苦しみ、再び両親の元へ戻ります。
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第4章:パリでの刺激と衝突――新たな絵画への挑戦
1885年、父の突然の死に直面した後、ヴィンセントは画家としての代表作『じゃがいもを食べる人々』を完成させます。しかし友人からの評価は厳しく、失望の中で友人関係も崩れていきました。モデルの妊娠が問題となり、地元の神父は農民たちに「ゴッホのモデルになること」を禁じ、ゴッホはモデルを雇うことが困難になりってしまいます。
その後は、ベルギーのアントワープに移り、美術アカデミーに通います。しかし周囲との衝突が絶えず、またしても孤立します。生活は極貧で、食べ物もろくに食べられず、体調はまたどん底に。それでもゴッホは諦めず、ついに1886年、画家フェルナン・コモンのアトリエで絵を学ぶため、パリへ向かうのです。
弟テオと暮らし始めた彼は、印象派の画家たちと出会い、大きな刺激を受けます。モネやピサロ、ルノワールらの作品に触れ、それまでの暗く重い色使いから、明るく鮮やかな色彩表現へと作風を変えていきます。ゴッホが色彩と出会った瞬間です。さらに、ジョルジュ・スーラの点描技法や、日本の浮世絵からも大きな影響を受けました。日本の風景画に見られる平面的な構図や色使いは、彼の芸術観を根底から変えていきました。
この頃から、ヴィンセントは自画像を数多く描くようになります。これは、モデルを雇うお金がなかったことが、一因しています。鏡を買えばモデルを雇うより安上がりで、いつまでもじっとしていてくれるという、いいとこづくしで、30枚ほどの自画像が残っています。

カフェやレストランで展示会も開催し、作品が飾られるようになりましたが、人間関係は相変わらず不安定でした。共同生活をしていたテオも、短気な兄との生活に嫌気がさしており、フィンセントは次第にパリでの暮らしに限界を感じ始めます。
やがて自然に囲まれた理想郷のような場所で、心穏やかに絵を描きたいという思いを強めていきました。そして彼は、憧れの地・南フランスへと向かう決意を固めるのです。
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第5章:憧れの南仏アルルへ――色彩あふれる世界を求めて

パリの喧騒に疲れたヴィンセントは、日本のように明るく、素朴な風景を求めて南仏アルルへ向かいます。しかし1888年2月19日、長旅の末に到着したその地は、思っていたほど暖かくはなく、過去28年間で最も寒い冬が待っていました。
それでも春になると、果樹園が花であふれ、一面に広がる色彩がヴィンセントを魅了しました。「こここそ、自分の芸術を開花させる場所だ」と強く信じ、彼の創作は一気に熱を帯びていきます…
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おわりに
ゴッホの人生は、常に葛藤と孤独、そして情熱の連続・・・。画家として成功する道のりは平坦ではなく、どの瞬間を切り取っても、絶え間ない苦しみの中で光を探すような日々でした。
それでも彼は、絵を描くことをやめなかった。夢を見て、傷ついて、それでも前を向いて歩き続けた彼の人生はその後…
次回の【ゴッホの人生を辿る旅 Part3】では、南仏アルルでの創作、ゴーギャンと過ごす日々、精神の崩壊、晩年までを辿っていきます。
きいこ
参考文献:『ゴッホの地図帖 ヨーロッパを巡る旅』(講談社)著:ニーンケ・デーネカンプ、ルネ・ファン・ブレルク、タイオ・メーデンドルプ